須佐衛が「伊豆の広場」に投稿してきた記事です。
平成15年5月11日
「初の力」
先日の28日の伊豆新聞の記事は殺伐とした話題の多い中、非常にすがすがしかった。
その日の前日に投票があった、統一地方選挙後半戦の結果が気になってページをめくったのだったが、7面に阪神タイガースの伊代野投手が初勝利を飾ったという記事が顔写真入りで載っていた。今年の新人選手で地元伊東市出身とのこと。実は以前テレビ中継を観戦していた時に静岡県出身であることは聞いていて、まさか伊豆では?とそんな気がしていた。
というのも伊東で買い物をしていると「伊代野」という名札をした店員さんに会うことがある。「ねえ、もしかして阪神の伊代野選手の親類?」などと聞くことも出来なかったので、記事を読んで「ああやっぱり!」と阪神ファンの私は声を上げた。 いずれにしても地元出身の選手の初勝利を心から祝福したい。初勝利も初当選もこれからが試練だ。
平成15年6月8日
「5月の不思議」
今日ラジオでとてもいい話しを聞いた。DJのEPOさんが言っていたのだか、EPOさんは毎年4月5月頃になると誰とも会いたくなくなるという。新緑が芽吹くのを見ると自分が気後れしてしまうとのこと、確かに五月病という言葉あるように、社会になじめないと感じる人は少なからずいる。ある医師が言っていたそうだが、日本は四季の区別がしっかりあるので、その変化に気持ちや体がついて行けなくて、自律神経を乱してしまう人もいるというのだ。私も少しそう云うところがあるのだか、自然に逆らったり従順でいたり、日本人は自然とうまく付き合うのがいいらしい。近ごろの山歩きブームは、そんな人間の自然に対する自己主張なのかもしれない。山を歩いた後のすがすがしさはそうなのか。と感じた。五月晴れの天城は大勢のハイカーで賑わっていた。
平成15年9月14日
「子供たちの唱声に感動」
今回、熱川小学校の6年生が、NHK全国学校音楽コンクール静岡大会で金賞を受賞したことは大変喜ばしく思います。
夏休み、誰もいない学校で必死に練習する生徒たちの歌声は校舎にこだまし、なによりも清清しい涼をもたらしてくれました。合唱という声のチームワークがこれほど人を感動させ勇気づけるものか、生徒たち自身も感じ取ることができたでしょう。
ひょっとしてこの町の人々が忘れていたことを思い出させてくれたかもしれません。
この町の人々がもっともっと芸術や文化に親しむことが出来れば、心にゆとりができるでことでしょう。そんなことを生徒たちに教えてもらったような気がします。
東海北陸ブロックでは、惜しくも全国大会への出場は逃しました。しかし、奨励賞という励ましの賞を戴き、後輩たちにその望みをたくすことができたのです。更なる熱小の熱唱に期待します。
平成15年11月16日
「日米野球談義」
日本シリーズ、ワールドシリーズとも終了して、長かった野球シーズンも終わりを告げた。日本人メジャーリーガーが誕生してからは、夜はビールを、朝はコーヒーを片手に野球観戦の毎日が続いている。もちろん仕事の合間を見てであるが、野球が生活の一部となっているのが現状である。
日米の野球の違いは、パワー・スピード・緻密さなど人によっていろいろな見方があると思う。いずれにしても子供たちにとって“あこがれ”のスポーツであることに違いない。ところがメジャーリーガーの多くは、ガムをクチャクチャ、つばを吐き捨て、ベンチの中はゴミだらけ、とても「選手たちを見習いなさい」といえないのが現実である。
その点、日本のプロ野球は、帽子を取って一礼してからグラウンドに立ち、去る時も一礼する選手が多いが、これは信教の違いにほかならない。日本では古来から、八百万の神々が万物に内在しているという考え方がある。そのためつばを吐く行為はしぜん戒められてきた。ところがメジャーリーガーの多くは、キリスト教に基づく一神教の国の出身である。
よくホームランを打った選手が返ってくると、神に感謝している仕草を目にする。逆に言えば、グラウンドであるとかベンチであるとかに神がいるはずはないので、つばを吐いたりゴミを捨てたりという行為になってしまうのであろう。文化の違いがこんな一面にも出てきて面白い。
ここまで考えて野球を見る人は少ないと思うが、国際化が進む社会にあってお互いを理解するもっとも根本的なところは宗教である。そこが大切だと思う。
そう言えば、伊豆の祭りも宴たけなわである。
平成16年1月18日
「“逆”の見方」
巷では景気回復がささやかれ、伊豆の各施設も多くのお客さんで賑わったようです。ご多分に漏れず私の宿もそれなりに忙しい年末年始を迎えました。
そんな中、元旦に手に取った伊豆新聞の新年号は、大仁からとらえた天城連山の姿が大きく写し出され、私にとってとても衝撃的でした。少しオーバーですが、カルチャーショックと言ってもいいかもしれません。
昨年初めて天城縦走を試みた私は、仲間とともに東伊豆の立場で天城の自然とハイキング道の整備を微力ながら行っています。ついその三・四日前も初雪の降った天城連山を撮りに白田川の河口にあるしらなみ橋に立っていました。東から見る天城連山は左から小岳・万三郎・馬の背・万二郎となるのです。私にとってそれが常識ですし、当たり前のことでした。ところが西から見る連山は逆になっている。
だからどうしたんだと言われそうですが、私にとってこの事実は何よりも侵し難い神聖なもののように思えてしょうがありません。いろんな人がいます。いろんな立場があります。逆の立場に立つこと、相手のことを考えて行動すること、新年に先駆けおこがましいのですが、逆の見方を再認識しました。
平成16年4月30日
「癒しの時代に」
先週の伊豆の広場を読んで、思い立ったので書かせて頂きます。「音楽つきの読み聞かせ」に感銘を受けました。私も男だてら?に娘の幼稚園や小学校に行って読み聞かせをしています。今では読み聞かせの会ができて、熱川小学校の朝読書の時間を使って読ませてもらっています。
よく読み聞かせは「無償の愛のプレゼント」といいますが、私も本当にそう思います。一冊読んで得られる感動は、読み手にも聞き手にも平等に訪れます。
伊豆市の田足井さんの音楽つきの読み聞かせの実践は、すばらしいと拍手を送りたい思いです。
「松崎の名を残して」を読んで大いにそう思いました。以前、伊豆市ができるときに「天城」の地名がなくなると聞いたことがあります。古くから馴染まれている地名が地図から消えてしまうのは残念です。
昨年、那賀川沿いの田んぼの花畑に行ってきました。そのきれいさに今年またリピートしました。
帰り掛け、花の三聖苑をのぞいてみると、大沢学舎に俳句の短冊がいくつか掲げられていました。
「松崎の春陽肌着ひとつにす」どこかで聞き覚えがあると思ったら、昨年訪れたときに投句した私の句でした。
物の豊かさが頂点に達している今、心の豊かさを満たしてくれる松崎の取り組みに感謝するとともに、期待したい思いです。
平成17年2月6日
「へぼ将棋王より…」
先日、楽しみにしていたテレビ番組で久しぶりに大笑いした。NHKの“バラエティ大逆転将棋”というこの時期に毎年放映する番組である。タレントがあの手この手でプロ棋士に挑戦するのだが、今回は東西を代表する重鎮棋士がタイトル戦さながらの演出で、なんと挟み将棋を指す。棋士も棋士で大真面目である。それと、棋士が犯した反則負けを紹介するコーナーもあり、私のような素人も大変励みになった。ちなみに伊豆高原の重鎮、青野照市九段は反則者リストに名前が出なかった。さすがである。
私は幼いころ父に教えられてよく将棋を指した。負けると悔しいので対戦はしないが、テレビで対局を見るし、伊豆でタイトル戦があるとのぞきに行く。最近はゲームゲームで、将棋や碁は廃れっぱなしだろう。うちは娘二人ということもあって、盤面に向かい合って座るということはほとんどない(ということはたまにはあるのだが…)。父に教えられたことで覚えているのは将棋を指している時の一言だ。
そういえばこんなことを言っていた。「へぼ将棋 王より飛車を 可愛がり」 どうやら船会社は飛車並みの動きをするジェットホイル船がお好きらしい。王様を忘れてもらっては困るのだが…。
平成17年5月15日
「『あの日』 に語られる言葉」
NHKの衛星放送では今、「あの日」という終戦六十年にちなんだ小さな特番を毎朝放送している。その時間帯がちょうど天気予報と重なるため、始めは見たり見なかったりだったのだが、今月に入ってからは忘れずに見るようにしている。いや、見ずには居られない心持ちになると言った方がいい。
当時の日付の新聞記事をもとに、著名人が「あの日」を思い返すというもので、終戦の年の三月は東京大空襲を皮切りに各都市で大規模な空襲があった。戦火は拡大されこの五月は沖縄戦の敗戦である。
振り返りながら語られるその悲惨、悲痛、無残さに、改めて平和の尊さを感じずにはいられない。
東京オリンピックの年に生まれた私にとって、その後の高度経済成長から大量生産大量消費時代は、不幸を知らない裕福な時代であった。しかし、地獄を見、どん底から這い上がって豊かさの頂点に達した人たちの言葉は、モーニングコーヒーを持つ手を停めてしまう。
八月の終戦へと続けられるこの語りのリレーは、民主国家日本の産みの苦しみそのものである。
平成17年7月3日
「業務改善命令は国土交通省に」
最近、国土交通省の北側大臣の顔をよく目にする。昨年以降、次々と問題化した自動車メーカーによる欠陥隠し、航空会社の不良整備に伴う相次ぐトラブルの発生、金属片が付着したガードレールが各地で発見され、JR只見線では橋げた落下して普通列車に接触。そしてなんと言っても四月二十五日に起きたJR福知山線の脱線衝突事故、百人を超す死者が出る大惨事である。
この国土交通省というのは、四年ほど前の省庁再編で、建設・国土・運輸・北海道開発の四省庁が合併してできたマンモス省庁である。それまでそれぞれが特色をもった行政スタイルを展開してきたものが、十派一からげのごとく括られた格好だ。われわれの生活に密接している情報を提供する気象庁もこの下部組織であるし、この国土交通大臣は、伊豆にも関係の深い観光立国担当の大臣でもあるという。
これだけいろんな方面に明るい大臣も珍しい。いや、お世辞にもそうは言えないだろう。多くのセクションに目が行き届いていないのが現状なのだ。
大切な命を預かる省庁が、これほど後手後手に管理監督業務を行えばどうなるかは、役人自身がよくわかっているはずだ。業務改善命令は国土交通省じたいに必要かもしれない。そうしないと、このヒューマンエラーはなくならないと思う。
この役所の中で、伊豆の道路事情や伊豆ナンバーについてどれだけ真剣に考えている人がいるのか、疑問である。
平成17年11月13日
「箒木山を越えて」
先週の日曜日(10/30)、奈良本子供会の遠足がありまして、天城連山の東のはずれ箒木山に登ってきました。子供と保護者、私たち役員の総勢70人が林道から箒木山を目指したのです。一時間弱で山頂に到着、巨大なアンテナ(NTTのアンテナがある)を眺めてみなきょとん、その日はあいにくの曇り空で天城の山々や海は臨むことが出来ませんでした。
そもそもこの企画が浮かんできたのは、役員のむかし話からでした。「そう言えば遠足の時、万二郎まで登ったっけじゃ」
あのいつも眺めている山に、ふるさとの山に、自分の子どもたちにも歩かせたくて浮かんだ企画でした。女性役員を交えた話し合いでは反対する人も多く、私も無理かなと思いました。それでも男性役員の熱意が勝って(実は夏の日帰り旅行は中止になっている)
今回の遠足は実現することになったのです。
私はといえば地元の山の会のメンバーで、以前から箒木山〜万二郎のコースの整備をボランティアで行ってきました。このコースはよく知られる“天城縦走コース”から外れたコースで、ガイドブックにも詳しく出ていません。それだけに不安もよぎりました。
箒木山の頂上で天城の山々の簡単なレクチャーを終えると、野生のリンドウがほころぶハイキングロードをみなはやる気持ちを押さえながら飛び出しました。急きょ用意した軍手を手に巻きつけロープをたよりに降りたり登ったり、万二郎の頂上までは行くことができませんでしたが、目的にしていた途中の立石には高学年の多くがたどり着くことができました。
「ここからちょっと行ったところに眺めのいいところがあるぞ」の問いかけに「行ってみたい!」と数人の子が手をあげました。
築城石を思わせる大きな石がごろごろしたところに立つと、伊豆半島の南半分が音もなく視界に入ってくる。そしてそれを覆うように赤や黄色に染まりはじめた紅葉のカーテンが幾重にもつづく…。
男の子が「おおー!おれ人生観変わりそうだよ」
教えても出てこない心の底からの言葉でしょう。そして帰り道ではどこからともなく大地賛唱の合唱が…。そして「早く戻ってカレー食いてー」のホンネも飛び出します。
次回、より多くの参加者を期待するとともに、この過酷なハイキングが、みなの前向きな姿になって背中を後押ししてくれればと思います。
平成18年2月5日
「片野町長逮捕に思う」
今般の一連の騒ぎは、町民はもちろん伊豆半島・いや全国に東伊豆町の汚名をそそいだといっていい。これから花のシーズンを迎える観光地伊豆に、悪い虫をつけるどころかツボミのまま根ぐされにしてしまった。今後の町政のことも含め、責任は非常に大きい。
私も高校で政治経済を教えてきた人間なので少しは解るが、はっきり言ってこの手の事件は教材にも載らないほど“当たり前”化している。つまり、お役所権力とその癒着の問題である。田舎の自治体にはよくある話だ。しかし、その後の顛末が私にはまったく理解できない。まるで小藩を舞台にした山本周五郎の時代小説を読んでいるような、不可解極まりない事態が次から次と報道されている。
まず逮捕から一夜明け、議会は予算編成の詰めに追われた。そしてどういうわけか新規事業として計画されていた道路の拡張工事が中止に追い込まれ、幼稚園の統合問題では消極的な態度が示された。
非常に不思議なのが、いかに町長逮捕といえども「疑わしきは罰せず」で、まだ判決も下りていない辞職もしていない事態のなかで、今まで議会も含めて検討してきたことが一日で“中止”になっていいものなのか、という点である。まったくと言っていいほどそのプロセスが見えてこない。まるで、町長という重石がとれたビックリ箱のようなものだ。
しかし、それらの見解も県との予算の絡みでしだいにトーンダウン。金曜日の伊豆新聞の記事ではそれら事業の継続を確認したというニュアンスだ。
今後どうなっていくかわからないが、役所の職員ならびに議員は慎重にことに当たってほしいし、町民の利益を最優先に考えてほしい。これが巷の“当たり前”なのである。
平成18年2月5日2月26日
「トリノに人生の価値観をみる」
トリノオリンピックもはや半ばまで競技が進み、日本人の健闘も虚しく今だメダルゼロ、入賞の有り難さをひしひしと感じる今日このごろである。そんな中、期待の競技の一つにスノーボードがある。ハーフパイプではまさかの予選落ちが続き惨憺たる結果に終わってしまった。優勝したアメリカの選手は、ほとんどWカップで転戦することなく国内で活躍していたという。試合後、アメリカのコーチがインタビューを受
けてこんな事を言っていた。「えっ?日本が強くなるにはって、それはこの競技場のような大きなパイプをたくさん作ることだ。アメリカにはこのサイズのものがいくつもある」と。
実に的を射ているとは思わないか。日本では危険だとか、お金にならない?とかの理由でスキー場からスノーボーダーが干されていると聞く。これを期に他国に負けないような場所づくりを考えてあげればどうだろうか。小さい器でくるくるやっていたってだめだ。
−余談だがもう10年近く前、熱川の海岸でサーフィンをやっていた時、某ホテルの前の駐車場に停めたことがある。その時「サーファーはここに停めるな。おまえたちは金にならねぇ」と言われたことをふと思い出してしまった。−
新競技のスノーボードクロスにくぎづけになった人も多かったと思う。二番手争いをしていた二人がこけて四番手の藤森選手がゴール、結果7位入賞である。人生こんなもんよとなぞった人も多かったのでは?今日も遅くまでテレビにかじりつきだ。
最後に一句 「昼と夜 ひっくり返って 3D (スリーディー)」
平成18年10月29日
「安倍内閣の“サプライズ”とは」
安倍内閣が成立して二週間ほどが経つ。“功労内閣”と揶揄されるように、森派や安倍氏の側近で固められた内閣だ。これといったサプライズもないし、華もないような気がする。強いて言えば厚生労働大臣に就任した柳沢伯夫氏が静岡県選出の議員で、過去に国土庁長官、金融担当大臣などを歴任し、実績を残していることである。
伊豆はなんといっても観光で成り立っている地域である。それは経済的に不安定な地域であるとも言える。そのことをわかってくれる大臣がどれだけいるのか。恐らくいないだろう。なぜなら伊豆は日本の経済を支える屋台骨ではなく、人々の癒しを支える観光地だからだ。
以前にも伊豆の広場に書いたが、五年前の省庁再編で、建設・国土・運輸・北海道開発の四省庁が合併してできたのが国土交通省である。伊豆にとって大切な道路建設のカギを握っているのがこの役所だが、実はこの国土交通大臣は観光立国担当の職務も兼任しているという。行政改革でスリム化した省庁は、実は兼務に兼務を重ねている格好になっている。その一方で財政や金融ばかりに特命大臣を増設したせいでセクショナリズムに火をつけた。
ひとつお願いしたいのが、疲弊した地方の現状を鑑みて、専任してことに当たれる地方行政担当大臣と観光担当大臣を新設してほしい。まあ、ここでお願いしても仕方ないのだが…。
望みは5年ぶりに誕生した“ファーストレディー”だ。早速、先日の訪韓の際には地元の小学校に訪れ、勉強中の韓国語で詩を読んだそうだが、この内閣の真のサプライズは昭恵婦人かもしれない。
平成18年11月26日
「履修漏れ騒動の結末はいかに」
まさかと思った富山の高岡南高校の履修漏れ騒動は、実は全国の高校でも同じような実例があるということで、ただただ驚きあきれるばかりである。子どもの我がままや躾のことが取りざたされる中で、学校でもそれが許されていたことに驚きが倍増する。さらに成績表にウソの記載がされるなどの報道があり、まさに親バカならぬ“教師バカ”である。
今回の事態についてはいくつか問題点が指摘される。まず第一に、「受験に必要な科目以外は勉強したくない」という生徒の声を指導に反映してしまったこと。学業が何たるかを本末転倒している。ふだん培った学力を受験で試すのではなく、受験のために授業を受ける。学校が完全に塾化している。
公立高校でも大学の入試結果がその高校の優劣を判断する決め手になっている昨今、あまりにも偏りすぎた学業不均衡が起きている。やりたいものだけやってやりたくないものはやらない。起きたいときに起きて食べたいときに食べる。働きたいときに働いてサボりたいときにサボる。世の中が自由になるにしたがって、本来自由という観念の持つ厳しさが姿を消し、襟を正すべきときに自らを律することができなくなっている。家庭でも教育の現場でも近年このような傾向が目立ってきて、様々なところで歪を生じさせている。
必修科目を“ムダ”というならば社会に出れば“ムダ”が山ほどある。それに直面したときの対応力を着けさせるのも教育だし、それ以前になぜ必修なのかを教師自身が把握し、生徒に諭していかなければならない。受けをとって生徒を引き付けることがいじめに繋がっている。今の時代、真剣に語りかけることが、実は一番生徒を引き付けるんだということを教師自らが気付いてもらいたい。
さらにこの問題の背景には少子化現象も見え隠れする。大学の定員割れがささやかれる中で、受け入れ側は定員確保のために躍起になっている。レベルは維持しつつも受験科目を少なくして試験を受けやすくする。そして、なるべく“良い”生徒を採ろうとしているのが今の大学側の実情だ。このような“やさしさ”だけを前面に出した教育はこれからも続く恐れがある。
平成21年4月19日(日)
「憲法論から風力発電事業」
三月十五日の「伊豆の広場」で、石廊崎の風力発電事業について書いた方がいらっしゃいました。私は熱川の三井分譲地に住んでおりますので、ご心配の種はよくわかります。現在熱川の風力発電事業では、ちょうど一年前に起きた事故の後、二月に試運転を再開し騒音調査などを行っています。
低周波音の問題も騒音の大きさの問題も、法的な整備がなされていないという指摘が多くあります。正直言って法整備以前の問題、すなわち憲法の解釈にかかわる問題だと私は思っています。日本国憲法第十三条に「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする」(抜粋)とあります。つまり、全国で広がっている風力発電事業が「公共の福祉」に当たるのかどうか、それが大きなポイントになっているように思えてなりません。CO2削減のための風力発電事業が、公共の福祉と認識されるのであれば、国民の生存権はこれに配慮せざるを得ないでしょう。しかし、低周波や騒音が、ひとたび人体に影響があることが明らかになれば、環境権や静穏権といった「新しい人権」が優先されるのではないでしょうか。
かつて水俣病をはじめとする四大公害病が起こった背景は、公害対策基本法という公害問題に特化した法律が整備される前でした。風力事業が不完全な法整備のなか闊歩するようでは、周辺住民の健康問題はよりいっそう深刻になるのではないでしょうか。それが心配です。
平成22年4月4日
「めざましかった女性選手」
バンクーバー五輪を終え思うことは、女性アスリートの活躍が目立ったことだ。日本人94名の選手のうち、約半数の45名が女性だった。選手団の団長はメダリストの橋本聖子さんが務め、金メダルはなかったものの銀三つ、銅二つの成績を収めたのは立派だった。
今回の大会では入賞も増え、実りの多かった大会と言えるが、5位までの入賞に注目していえば、12のうち8つが女性の入賞となった。女性の活躍が目立ったのは、冬の五輪ならではのビジュアル感が効いたせいもあるだろう。夏の大会で真っ黒に日焼けした姿も印象的だが、銀盤に躍動する女性アスリートの姿は、女性の白さや清らかさをそのままにして茶の間に届けられた。
特に印象的だったのが、フィギュアスケートの3人の日本代表、カーリングのクリスタルジャパン、そして、最後の最後まで金メダルを期待させたパシュートの4人だった。
この競技、まるで日本のために設けられたような競技で、先頭の3人が順番に替わりながら団子になってゴールを目指していく。団体戦が得意な日本にはもってこいだ。
ドイツとの決勝では途中2秒近く離し、「金だ!金だ!」と興奮したが、最後は0.02秒差の銀メダル。ここまでくると技術とかそんなもんじゃない。勝ちたいか勝ちたくないかの違いだけ。準決勝のアメリカ戦だったと思うが、ドイツの選手は最後転びながらエッジを上げゴールした。それくらいの執念がないと一番になれないのだ。
オリンピッククラスになれば、コンディションひとつで順位が変わるのは当たり前。「勝ち切る」という執念は、自然に準じて生きてきた日本人には難しいのかもしれない。がんばれ!ニッポン!
平成23年1月22日
スポーツ店がなくなったことの意味
「ちょっと、知ってる?」この町にとって、聞き捨てならないニュースが私の耳に飛び込んだのは妻からだった。それも稲高ゴルフ部に所属する娘からの情報だった。
「“Mスポーツ”が閉店した」こんなことがあっていいのか。私は常々、どんな小さな町にもスポーツ店が一軒はなくてはならないと思っていたが、それがなくなったのだ。
大した注文をしていた訳でもなく、それでもミニバスチームのシューズは注文していたしボールなどの備品もお願いしていた。俳句大会の盾なども頼んでいた。その他にも細々したものも時たまお願いすることがあった。無理なお願いも快く聞いてくれた。それをこれからどうするのか考えるとけっこう辛いものがある。
大型店の品揃えの豊富さ、それに最近ではインターネットでどんなものでも購入できる。しかも、実店舗で営業していない分、商品の価格が安い。家に居ながらにして注文できる便利さで、後ろめたい気持ちはあってもついついパソコンの前に座ってしまう。
学校では毎年の体操着などの注文はあるだろうが、部活で使うものなど、やはり町外で購入していることも多いと思う。緩衝地帯と思われていた田舎町にも、不景気だけはきちっと津波のように押し寄せ、地域社会を壊していく。見えない相手との競争が、商売の世界の常識になってきて、これまで以上の営業努力が欠かせなくなってくる。使命感だけではどうにもならない時代に突入してきている。
地方が誇れ、地方が興じ熱中できるスポーツの拠点がなくなったことが残念でならない。しかし一方で、この町の商店も“攻めの姿勢”でネットビジネスに取り組む時期に来ているのかもしれない。
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